人的資本の独自指標とは?開示の先進事例4社を解説
2023年3月期より、有価証券報告書において人的資本の情報開示が求められるようになりました。しかしながら、金融庁の『記述情報の開示の好事例集』などでも触れられているように、企業側の開示と投資家の関心には依然としてズレがあると指摘されています。研修時間や女性管理職比率といった指標を並べても、それが自社の価値創造にどう結びつくのかというストーリーが見えなければ、投資家にとって評価が難しくなります。
だからこそ注目したいのが、自社のビジネスモデルと人材の価値を独自の指標で結びつけ、その説明に踏み込んでいる企業群です。本記事では4社の開示を、指標の設計と見せ方という観点から見ていきます。
| 項目 | オムロン | ディスコ | サイバーエージェント | メルカリ |
|---|---|---|---|---|
| 決算期 | 3月期 | 3月期 | 9月期 | 6月期 |
| 独自の指標 | 人的創造性 (売上総利益÷労務費) |
Will会計 (社内通貨による全社売買契約) |
Geppo (月次コンディションサーベイ) |
説明できない賃金格差 (重回帰分析) |
| 離職率の開示 | あり (自己都合/会社都合の内訳つき) |
あり (全体+新卒3年以内) |
あり (有報の指標として) |
非開示 |
| 離職率の集計範囲 | オムロングループ[国内] ※希望退職を除く |
ディスコ単体・正規従業員 ※退職者÷期末在籍者 |
連結 | — |
| 数値目標の有無 | — | — | 設定なし (適切な入退社は必要との考え) |
— |
| 離職率の直近値 | 4.4%(2025年度) | 2.5%(FY2025) 新卒3年以内 16.3% |
9.1%(2025年度) | — |
| 代わりに開示している指標 | エンゲージメントスコア 女性マネージャー比率 |
平均勤続年数 中途採用比率 |
女性管理職比率 「働きがいがある」割合 |
エンゲージメント 男女賃金差異 育休後定着率 |
※決算期は各社で異なる(オムロン3月期/ディスコ3月期/サイバーエージェント9月期/メルカリ6月期)。離職率の集計範囲・算定方法も各社で異なるため、水準の単純比較はできない。
出典:各社の有価証券報告書・ESGデータよりMutual作成
目次
1オムロン:独自KPI「人的創造性」で人件費を投資と位置づける
オムロンは、工場の自動化を支える制御機器を主力とし、血圧計などのヘルスケア機器、駅の自動改札機に代表される社会システム、電子部品などを手がける企業です。人的資本の開示においても、製造業として付加価値をどう生み出すかという視点が指標の設計に表れています。
オムロンの開示で目を引くのが、独自指標である「人的創造性(付加価値額 ÷人件費総額)」を最重要KPIとして設定している点です。これは一般的な財務分析で用いられる「労働分配率」をあえて逆数にしたものです。

分母と分子をひっくり返しただけに見えますが、ここには「いかにコストを削るか」ではなく、「資本を活かして、いかに価値を最大化するか」という経営の意図が込められています。人への投資を、数字で説明可能な形に置き換えた設計です。
なお同社は2024年度に構造改革を実施し、グローバルで2,526名が退職または退職に合意、人件費は前年度比172億円減少しています。人的創造性は労務費を分母に置く指標であるため、こうした構造変化があった年は、指標の改善が分子(付加価値額)と分母(人件費総額)のどちらによるものかを併せて読む必要があります。
出典:オムロン 統合レポート2025「人財ハイライト」
では、この指標を掲げた同社の業績と人材の数字は、実際にどう動いたのでしょうか。
| 項目 | FY2021 (2022年3月期) |
FY2022 (2023年3月期) |
FY2023 (2024年3月期) |
FY2024 (2025年3月期) |
FY2025 (2026年3月期) |
|---|---|---|---|---|---|
| 売上高(百万円・連結) | 762,927 | 876,082 | 818,761 | 715,379 | 767,351 |
| 営業利益(億円) | 893 | 1,007 | 343 | 540 | 599 |
| 従業員数(人・連結) | 29,020 | 28,034 | 28,450 | 26,614 | 26,050 |
| 退職率ー日本(%) | 4.1 | 4.7 | 5.4 | 5.5 | 4.4 |
| うち自己都合(%) | 2.1 | 2.1 | 2.2 | 2.7 | 2.0 |
| うち会社都合(%) | 2.0 | 2.5 | 3.2 | 2.6 | 2.4 |
| 平均年間給与(円・提出会社) | 8,497,000 | 8,987,000 | 8,739,000 | 8,205,000 | 8,882,000 |
※退職率はオムロングループ[国内]。希望退職を除く。
※売上高は、電子部品事業を非継続事業に分類したことに伴い、FY2024・FY2025の数値が組み替えられている。それ以前と単純比較はできない。
※平均年間給与は提出会社(オムロン株式会社単体)の数値。
出典:オムロン 有価証券報告書・業績推移・ESGデータよりMutual作成
営業利益は2023年3月期の1,007億円をピークに、2024年3月期は343億円へ落ち込みました。直近の2026年3月期は599億円で、回復の途上にあります。国内の退職率は4〜5%台で推移し、直近は4.4%。提出会社の平均年間給与は8,882千円で、前事業年度から8.3%増加しています。
人件費の総額が172億円減少する一方で、一人当たりの給与は増えている。総額の圧縮が、主に人数の側で行われたことがうかがえます。
この指標について、同社CHROの冨田雅彦氏(取締役執行役員専務)は、統合レポート2024で次のように述べています。
「前述の人的創造性指標において、人件費は上がっているのに付加価値額がそれ以上に上がっていない現状を見る限りでは、その取り組みが現時点で十分ではなかったと判断せざるを得ません」
同氏は人員・人件費構造の見直しについても、その理由を明示しています。
「今回、国内外合わせて2000人規模の人員・人件費構造の適正化を進めたのは、変化の激しい事業環境にも耐えられる人財ポートフォリオを再構築するためです」
出典:同上
独自指標を掲げる企業が、その指標が計画どおりに改善していないことを自ら開示し、その理由と対応を経営の言葉で説明している。指標を作ること以上に、指標が動かなかったときにどう説明するかが問われる、という例です。
2 ディスコ:社内通貨「Will」で全業務を売買契約にする管理会計
ディスコは、半導体の製造工程で使われる精密加工装置(ダイシングソー、グラインダ)で世界首位級のシェアを持つメーカーです。同社は独自の管理会計制度を、社外向けにも詳細に公開しています。
管理会計をそのまま開示している例が、ディスコの「Will会計」です。同社では2011年から、社内のあらゆる業務を「Will」という社内通貨を使った売買契約として行っています。
この仕組みの出発点は、2003年に部門単位で始めた管理会計でした。それを2011年に個人単位まで広げた理由を、関家一馬社長はこう語っています。
「それまでの部門ウィルでは、収支を気にするのは部署の長だけだったのです。一般社員は、あまり関係がないという感じだったんですよね。会社の仕事をもっと自分ごとにしてほしかったのです」
出典:日経ビジネス
この仕組みの特徴は3つあります。
第一に、社内の全業務に価格がついていることです。ある部署が別の部署に仕事を依頼すれば、Willの支払いが発生します。個人のWill収支は経費決裁権(DISCA)や賞与の一部と連動するため、日々の判断が一人ひとりの損益に直結します。同社によれば、直近の賞与は平均20.9カ月分で、そのうち約7.6カ月分(約36%)がWill収支に連動する部分です。
第二に、その管理会計を外部に開示していることです。社内でどのように資源を配分し、何を評価しているかは、通常は社外に出ることのない情報です。出典:ディスコ「Will会計」(自社サイト)
第三に、制度の弱点を自ら分析し、対策まで開示していることです。
「市場原理に完全に委ねると長期的・基盤的活動が不利になるため、全社勘定とIB(Investment Box)を併設して市場の失敗(公共財の供給不足、長期投資の過小化)を構造的に防ぐ」



社内を市場にすれば、短期的に成果の出る仕事に人が集まり、長期的・基盤的な活動が後回しになります。同社はこれを「市場の失敗」と呼び、全社勘定とIB(Investment Box)という別枠を設けることで構造的に防いでいると説明しています。制度の副作用を経済学の言葉で言語化し、その対処を制度に組み込んで開示している企業は多くありません。
なお同社の年間離職率は2.1〜2.7%で推移し、平均勤続年数は10.6年です(ディスコ単体・正規従業員、FY2025)。社内に市場原理を持ち込む仕組みでありながら、全体の定着率は高い水準にあります。
なお関家社長は、収支そのものが目的ではないとも述べています。
「ただし、収支は大事ですが、より重要なのは社員の自律意識です」
出典:同上
3サイバーエージェント:月次サーベイ「Geppo」と人事の直接介入
サイバーエージェントは、インターネット広告事業を祖業とし、現在はメディア(ABEMA)とゲーム事業を柱とする企業です。人材の質が事業の成否を直接左右する産業構造のなかで、従業員のコンディション把握に独自の仕組みを持っています。
サイバーエージェントは、全社員に毎月コンディションを尋ねるサーベイ「Geppo」を運用しています。Geppoは同社内で生まれた仕組みを、2017年にリクルートホールディングスとの合弁会社・ヒューマンキャピタルテクノロジーとして事業化したもので、現在は他社にも外販されています。
特徴はツールそのものより運用にあります。同社常務執行役員CHOの曽山哲人氏は、Geppoの設計についてこう述べています。
「GEPPOは上司には絶対に見せません。キャリアエージェントという、私の直轄の社内ヘッドハンターがいるのですが、この部門と役員しか見ないことにしています」
出典:キャリアオーナーシップとはたらく未来コンソーシアム(2022年3月3日)
2013年から毎月、全社員が自身のコンディションを晴れ・曇り・雨で回答します。設問は毎月変わり、半年に一度は将来やりたいキャリアを自由記入します。集まったデータをもとに、社内ヘッドハンターが年間200人程度の異動を仲介しています。
曽山氏は制度の運用についても述べています。
「人事制度は、企画が2割、運用が8割だと僕は考えています」
出典:同上
同社は有価証券報告書で、人的資本に関する戦略をこう説明しています。
「当社グループでは、『採用・育成・活性化・適材適所』を軸に、やる気を最大化させ、自ら主体性をもって決断し、自走できる人材を育成することを戦略とし、その活力と会社へのロイヤリティを高めることで、事業や会社を持続的に成長させることを重視しております」
注目したいのは、同社が離職率に数値目標を置いていない点です。開示されている離職率は2023年度7.4%、2024年度9.1%、2025年度9.1%と、直近はむしろ上昇しています。

その理由は、同じページに明記されています。
「離職率についても組織の停滞を防ぎ、活性化につなげるため適切な従業員の入社・退職は必要と考えており、数値目標は設定しておりません」
出典:同上
非財務指標の開示というと「改善したこと」を示しがちですが、同社は指標を下げること自体を目的化していません。人材の流出を一律に悪と捉えず、コンディションの変化を早期に把握して適切な配置につなげる。その運用の質を、指標の数値ではなく仕組みとして開示している点が特徴です。
4 メルカリ:「説明できない賃金格差7%」を自ら開示する姿勢
メルカリは、フリマアプリ「メルカリ」を中核に、決済(メルペイ)や暗号資産取引(メルコイン)を展開する企業です社員の約3割が外国籍で、東京オフィスだけで50を超える国籍の社員が働いています。多様な人材の獲得と定着が事業の前提となる構造です。
最後に取り上げるのは、「都合の悪いファクト」をあえて開示する姿勢です。
メルカリは自社のジェンダーペイギャップ(男女賃金格差)を分析した際、役割・等級・職種などに起因しない「説明できない格差」が7%存在することを公表しました。重回帰分析によって、説明できる差と説明できない差を分離したうえでの数字です。

注目したいのは、その後も同じ指標を追い続けている点です。同社のESGデータによれば、「説明できない格差」は2023年6月期の7.0%から、2024年6月期2.3%、2025年6月期1.4%へと縮小しています。一度きりの開示ではなく、継続的なモニタリングの仕組みとして運用されています。

同時に見ておきたいのが、同じ表に並ぶもう一つの数字です。正社員における男女間の賃金差異は37.5%(2023年6月期)から30.6%(2025年6月期)へ縮小しているものの、依然として30%が残っています。7.0%から1.4%へ縮んだのは「説明できない部分」であり、役割や等級の構成に起因する差は別の課題として残っている、ということです。
都合のよい数字だけを切り出すなら、「説明できない格差を7%から1.4%まで改善した」とだけ書けば済みます。両方を同じ表に並べて開示することで、何が解決し、何が残っているのかが読み手に伝わります。
5離職率の推移から見えること
| 会社(決算期) | 指標 | FY2021 | FY2022 | FY2023 | FY2024 | FY2025 | 集計範囲・定義 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| オムロン (3月期) |
退職率(日本) | 4.1 | 4.7 | 5.4 | 5.5 | 4.4 | オムログループ[国内]/希望退職を除く/非継続事業を含む |
| うち自己都合 | 2.1 | 2.1 | 2.2 | 2.7 | 2.0 | 同上 | |
| うち会社都合 | 2.0 | 2.5 | 3.2 | 2.6 | 2.4 | 同上 | |
| ディスコ (3月期) |
年間離職率 | — | 2.3 | 2.7 | 2.1 | 2.5 | ディスコ単体・正規従業員/当該年度退職者÷年度末在籍者 |
| 新卒3年以内離職率 | — | 7.2 | 10.6 | 11.8 | 16.3 | 3年度前の新卒採用者のうち3年以内に離職した割合 | |
| サイバーエージェント (9月期) |
離職率 | — | — | 7.4 | 9.1 | 9.1 | 連結/数値目標は設定していない |
| メルカリ (6月期) |
離職率 | — | — | — | — | — | 非開示 |
※決算期は各社で異なる(オムロン3月期/ディスコ3月期/サイバーエージェント9月期/メルカリ6月期)。集計範囲・算定方法も各社で異なるため、水準の単純比較はできない。
出典:各社の有価証券報告書・ESGデータよりMutual作成
同じ「離職率」でも、数えているものが4社で異なります。集計範囲、分母の取り方、除外する退職の種類。そのため水準を横並びで比べることはできませんが、推移の形からは各社の状況が読み取れます。
特徴的なのがディスコです。全体の離職率は2%台で安定している一方、新卒3年以内離職率はFY2022の7.2%からFY2025の16.3%へ、4年で2倍以上に上昇しています。厚生労働省の調査では大卒3年以内離職率の全国平均は32%前後で推移しており、同社の水準は依然としてその半分以下ですが、上昇の幅は全国平均の動きを上回っています。
ここで重要なのは、この変化が外部から見えるのは、同社が全体の離職率とは別に新卒3年以内離職率を開示しているからだという点です。全体の2.5%だけを出していれば、この動きに気づくことはできません。
離職率の改善は、費用にどの程度効くのか
離職率の低下が財務にどう効くのかを、仮定を置いて概算してみます。
従業員5,000人の企業で、離職率が3%改善したとします。退職者は年間150人減り、その分の補充採用が不要になります。1人当たりの採用単価をマイナビ『2025年卒 企業新卒内定状況調査』などで示される80万〜110万円のレンジで置くと、削減される採用費は年間1億2,000万円〜1億6,500万円となります。
ただしこれは採用費のみの概算です。育成費、後任が立ち上がるまでの生産性の低下、引き継ぎに費やされる既存社員の時間は含んでいません。実際の影響はこれより大きくなる可能性があります。
一方で、この試算は「離職率は低いほどよい」ことを意味しません。本記事で見たとおり、サイバーエージェントは離職率に数値目標を置かず、その理由を「組織の停滞を防ぎ、活性化につなげるため適切な従業員の入社・退職は必要」と説明しています。費用面での効果は計算できても、それを最小化することが経営目的とは限らない、ということです。
IR担当者にとって重要なのは、自社が離職率をどちらの意味で開示しているかを明確にすることです。コスト削減の成果として示すのか、組織の状態を測る指標として示すのか。同じ数字でも、位置づけが違えば投資家の読み方は変わります。
6まとめ:指標をつくる前に決めておくこと
4社の開示を並べると、独自指標そのものよりも、その周辺の設計に共通点があることが見えてきます。
第一に、指標を発明していません。 オムロンの人的創造性は労働分配率の逆数、ディスコのWill会計は管理会計、メルカリの「説明できない格差」は重回帰分析です。どれも新しい概念ではなく、既存の会計・統計の枠組みを自社の事業モデルに合わせて置き直したものです。独自指標を持つとは、ゼロから何かを作ることではなく、手元にある枠組みを自社の言葉に翻訳することです。
第二に、何を数えたかを明記しています。 同じ「離職率」でも、オムロンは国内のみで希望退職を除き、ディスコは単体・正規従業員で分母を期末在籍者に置き、サイバーエージェントは連結で見ています。数値の大小より、この定義の違いを開示することが、投資家が比較・検証できる状態をつくります。
第三に、指標が動かなかったときの説明を用意しています。 オムロンのCHROは、人件費の増加に付加価値額の伸びが追いついていないことを自ら認め、その要因と対応を語っています。指標を掲げれば、いずれ思うように動かない年が来ます。そのときにどう説明するかまでが、指標を設定する側の責任です。
第四に、都合の悪い数字を同じ場所に置いています。 メルカリは「説明できない格差」を1.4%まで縮めた一方、男女間賃金差異が30.6%残っていることを同じ表で示しています。ディスコは全体の離職率が2%台で安定する一方、新卒3年以内離職率は16.3%まで上昇していることを、同じデータ集で開示しています。粒度を上げるほど都合の悪い変化も見えるようになりますが、それでも出すという選択が、開示の信頼性を支えています。
人材への投資が財務リターンにどう結びつくかを証明することは、どの企業にとってもまだ難しい課題です。しかし4社の開示を見る限り、投資家に伝わっているのは因果の証明ではなく、何を測ることに決めたのか、そしてなぜそれを測るのかという判断の筋道です。
指標を選ぶという行為そのものが、その会社が人材に何を期待しているかの表明になります。自社の統合報告書や有価証券報告書を見直すとき、載っている数値が自社の事業モデルとどう結びついているか、その説明が読み手に届く形になっているか。そこから確認してみてはいかがでしょうか。