ROIC経営をどう開示するか——資本配分・撤退基準の好事例
東京証券取引所が2023年3月に公表した「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」の要請を契機に、経営目標としてROIC(投下資本利益率)を掲げる企業が増えています。一方で、算出したROICをIRの場でどう伝えるかは、まだ形が定まっていない企業も少なくありません。「当期の全社ROICは〇%でした」と結果の数字だけを記載しても、投資家の評価にはつながりにくいためです。
金融庁の「記述情報の開示の好事例集2025」は、投資家・アナリスト・有識者が期待するポイントとしてKPI指標の分解図に触れています。分解図が開示されても投資家が直接その指標を予測できるようになるわけではないものの、共通言語化することで対話の促進につながるため有用、という整理です。図を出す目的が、予測材料の提供ではなく共通言語の形成にあるという位置づけです。
本記事では、ROIC経営の開示を2つの型に分けて実例を見ていきます。ひとつは現場の行動改善につながる開示、もうひとつは事業ポートフォリオの資本配分・撤退基準の開示です。
目次
1ROE・ROAとROICは何が違うのか
| ROE | ROA | ROIC | |
|---|---|---|---|
| 分子 | 当期純利益 | 当期純利益(または事業利益) | 税引後営業利益(NOPAT) |
| 分母 | 自己資本 | 総資産 | 投下資本 (有利子負債+自己資本) |
| 測っているもの | 株主が預けた資本に対する最終的な利回り | 保有する資産全体の運用効率 | 事業に投じた資本が生む稼ぐ力 |
| 開示上の留意点 | 資本構成の選択によって数値が動く | 遊休資産や政策保有株式も分母に入る | 事業別に出すには配賦ルールの設計が要る |
3指標のうち、ROICだけが分母から非事業資産を外し、分子から財務活動の影響を除いています。事業そのものの資本効率を取り出せるのが、この指標が事業部門の評価に使われる理由です。
そして投資家がROICを見るとき、必ず対になるのがWACC(加重平均資本コスト)です。事業の利回りであるROICが調達コストであるWACCを上回って初めて、その事業は価値を生んでいることになります。
2現場の行動改善につながる開示
ROICを掲げたものの本社の財務部門で数字を管理するにとどまっている、という状態は珍しくありません。ここで取り上げるのは、その距離をどう埋めたかを外に見せている開示です。
2-1日立製作所:指標の意義から分解図までを有報に載せる
日立製作所は2025年3月期の有価証券報告書で、経営管理指標としてROICを導入していること、ROICが事業に投じた資金によるリターンを評価する指標であり、リターンを上げるにはROICがWACCを上回る必要があることを本文で説明しています。そのうえで、2024中期経営計画の目標値と実績を並べています。

達成した指標と届かなかった指標が同じ表に並んでいます。今後はAdjusted EBITA率13〜15%、ROIC12〜13%を目指すこと、そして事業買収における投資判断の基準としてもこの2指標を用いることで投資判断の規律を徹底する、と続きます。
金融庁が着目したのは、指標の意義を経営戦略と関連づけて説明したうえで、指標を構成要素に分解してアクションアイテムとの関連性を図解している点です。評価されたのは達成度合いではなく、「この数字はどうすれば動くのか」という問いに、有報の中で答えていることです。

日立製作所「有価証券報告書(2025年3月期)」P52-53
2-2カンロ:従業員700名弱の企業が回すROICツリー
同じ型を規模の異なる企業がどう運用しているかを示すのが、東証が2025年12月に公表した「課題解決に向けた企業の取組み事例集」に収録されたカンロです。スタンダード市場上場、従業員678名(2024年12月末時点)の食品会社で、2018年のコーポレートガバナンス・コード改訂を契機にROIC経営の導入を検討しました。それ以前は売上や利益といったPL重視の意識が強く、資本効率の視点は十分に浸透していなかったと振り返っています。
同社のROIC経営は、導入の順序が具体的です。2019年に資本市場室とIR室を新設してROIC経営を開始し、同年12月に財務指標関連のKPIをROICツリーに落とし込み、翌年から「KanROICツリー」によるKPIマネジメントと事業別ROICの算定・評価・報告を運用しています。ツリーの成否はKPI設定にかかっているとして、事務局である資本市場室が関連部門に丁寧にヒアリングを行い、一定期間をかけて策定したと記載されています。

カンロ「『資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応』について」
浸透の手段も具体的です。Web社内報でROICの定義や企業価値向上との関係を図解し、事業所説明会で現場のKPIとROICのつながりを解説しました。営業は売上重視、工場はコスト管理重視と立場が異なるなかで、双方の活動がROIC改善につながることを繰り返し伝えた、という担当者のコメントも添えられています。
逆ツリーの事例としてはオムロンや日立が知られていますが、この規模の企業が同じ型を回している事例が公的資料に載った意味は小さくありません。
3事業ポートフォリオの資本配分・撤退基準の開示
もうひとつの型は、算出したROICを資本配分の判断にどう使っているかを見せる開示です。とりわけ撤退の基準は、投資家からの関心が高い一方で、開示のベンチマークが乏しい領域でもあります。以下の2社は、判断の結果と判断の仕組みという別々の角度から、この領域に踏み込んでいます。
3-1旭化成:区分の定義に資本効率を組み込み、事業別ROICを並べる
旭化成は2025年4月に公表した「中期経営計画2027」の説明資料で、全事業の位置づけを4つの区分に整理して示しています。

区分は「重点成長」「戦略的育成」「収益基盤維持・拡大」「収益改善・事業モデル転換」の4つで、それぞれに短い定義が添えられています。注目したいのは、この定義のなかに資本効率が組み込まれている点です。「収益基盤維持・拡大」は拡大機会を資本効率を強く意識したうえで判断すると書かれ、「収益改善・事業モデル転換」には収益・資本効率が低迷する事業の構造転換が挙げられています。
撤退の数値基準を単独で掲げる代わりに、区分の定義そのものに資本効率を織り込む構成です。どの事業がどの区分に入っているかは同じ図で分かるため、読み手は「構造転換の対象をどう決めているか」と「いまどの事業が対象か」を一枚で追えます。そのうえで、区分と事業別の数字が別のページで結びつけられています。

このページには、事業ごとに位置づけ・方向性と、営業利益のFY24見通し・FY27計画・差分、そしてROICのFY24見通しとFY27計画が並んでいます。事業別ROICを目標値まで含めて全事業分開示している例は多くありません。
内容も一様ではありません。「重点成長」に置かれたクリティカルケアは営業利益380億円から550億円へ、ROICも7%から13%へ引き上げる計画です。一方、「収益改善・事業モデル転換」に置かれたケミカルは、営業利益288億円から175億円へ、ROICも6%から3%へと下がる計画として記載されています。増える数字だけを並べていない点が、この開示の説得力を支えています。
区分がROICの水準だけで決まっていないことも読み取れます。エナジー&インフラはFY24のROICが0%の見通しですが「戦略的育成」に置かれ、営業利益19億円から141億円への成長が計画されています。逆に国内住宅はROIC 42%と最も高い水準ですが、事業のなかを「不動産・開発関連」と「建築請負・リフォーム他」に分け、前者を「戦略的育成」、後者を「収益基盤維持・拡大」に割り当てています。報告セグメントより細かい単位で位置づけを与えているわけです。定量の物差しで全体を見渡しつつ、区分の判断には将来の成長ドライバーかどうかという視点も入れる。数値基準だけだと機械的に見え、基準がないと恣意的に見えるという撤退開示の難しさに対する、ひとつの答え方だといえます。
3-2三井物産:投資と撤退の判断プロセスを一枚に収める
旭化成が「どの事業がどの区分にあるか」を示す開示だとすれば、三井物産が示しているのは「どういう手続きでその判断に至るか」です。同社はポートフォリオ経営の実践を、案件形成・案件パイプラインの厳選・審議・ポートフォリオ・レビュー・リサイクルという5段階のプロセスとして一枚にまとめています。

投資する側の基準は数値で示されています。ハードルレートとしてIRR10%以上などを掲げ、あわせて希少性やOwn Field、事業群戦略といった戦略性・競争力の観点を並べています。さらに、1案件あたりの金額に応じてどの会議体が決めるかも書かれており、取締役会が600億円超、経営会議が150億円超、投融資案件審議会が50億円超という閾値が示されています。判断の場では、ポートフォリオ管理委員会がWACCや株主資本コストを踏まえた評価を行うとされています。
配分の判断も、案件ごとの採否だけで完結していません。事業本部が優先順位とリソース配分を議論し、ポートフォリオ管理委員会が定量貢献やリソースを踏まえて全社目線で評価、複数の事業本部を管掌する役員が案件パイプライン全体の優先順位づけを行い、取締役会が事業ポートフォリオの現状と方向性を確認する、という階層が示されています。個別案件の可否を決める前に、案件の並び順を全社で決める場が置かれている構成です。
あわせて、新規投資案件数が前中期経営計画期間から現中期経営計画期間にかけて量・質ともに拡充し、実質的な判断ラインが切り上がったことも図示されています。資産リサイクルで手元資金が増えても投資の基準は緩めていない、という説明の仕方です。
引き上げる側にも仕組みがあります。資産ポートフォリオ・レビューとして、全投資案件の保有方針の確認、撤退アラート基準に抵触した案件の検証、Exit方針資産の実行性の確認、上場株式の保有意義の検証が挙げられています。基準値そのものは伏せたまま、「撤退アラート基準」という仕組みの存在と、それが年間サイクルのどこで働くかを示す形です。レビューの観点も、収益性という定量軸に加えて、戦略性・人材の有効活用・事業成長余地・当社価値貢献の5つが並んでいます。
この開示でとりわけ効いているのが、実行状況を件数で出している点です。2024年3月期はレビュー案件数1,734件に対して、リサイクル実行が約120件と記載されています。レビュー案件数は各年度1,700件台で推移する一方、投資キャッシュ・インは2021年3月期の1,430億円から2024年3月期の5,370億円へ、資産リサイクル益は130億円から1,630億円へ増えています。基準があると書くだけでなく、その基準を何件に当てて何件を実行したかまで示すことで、仕組みが回っていることが読み取れます。
4おわりに
ROIC開示が投資家に評価されるかどうかは、算出の精緻さよりも、その数字が意思決定にどう組み込まれているかを説明できているかで決まります。ただし、4社が開示しているものは同じではありません。
| 企業 | 開示の対象 | 数値の扱い | 伝わること |
|---|---|---|---|
| 日立製作所 | 指標と目標の関係 | 目標と実績を並べ、未達も出す | 指標が業績評価から投資判断まで一貫して使われている |
| カンロ | 導入と浸透の過程 | 結果より手順を示す | 制度が現場で運用されている |
| 旭化成 | 判断の結果 | 事業別の現在値と目標値を全事業分出し、基準値は書かない | 構造転換の対象がすでに定まっている |
| 三井物産 | 判断の仕組み | 基準の存在と適用件数を出し、基準値は伏せる | 個別の判断ではなく仕組みで回っている |
とりわけ対照的なのが旭化成と三井物産です。両社とも撤退の数値基準そのものは書いていません。それでも読み手が基準の存在を確かめられるのは、両社が別々の経路を用意しているからです。旭化成は事業別の結果を全事業分そのまま出し、読み手が基準を逆算できる状態にしました。三井物産は基準の名前と年間の適用件数を出し、中身を伏せたまま運用の実在を示しました。撤退基準は数値を書かなければ開示できない、というわけではないことがわかります。
4社に共通しているのは、都合の悪い数字を同じ場所に置いていることです。日立は未達の指標を目標と並べ、旭化成は利益もROICも下がる事業の計画をそのまま載せ、三井物産はレビュー案件数1,734件という分母と実行約120件という分子を両方示しています。読み手が疑いを向けそうな数字を先に出しているため、残りの数字も検証を経たものとして読まれます。ROIC開示の説得力は、指標の水準ではなく、この置き方から生まれています。